2013年8月30日

科学の限界を踏まえよ武村雅之名大減災連携研究センター教授

90年前の9月1日に発生した関東大震災は、10万人以上が亡くなる史上最大の被害をもたらした。首都の地震対策を考える上では、東日本大震災だけではなく、東京が経験したこの震災と向き合うことが重要になる。
 名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之教授は、10万人以上の死者を出した関東大震災を振り返るとき、被害が拡大した原因を知るとともに、「当時の人々の生き方に触れることが重要だ」と話す。当ブログでは、竹村教授に、関東大震災を通じて災害に対する考えを聞いた。

◇恩を忘れない

 たとえば、本所で魚屋を営む夫と家を失った松本ノブさん。3歳の子どもと乳飲み子を連れて、行商の八百屋や寺に泊めてもらい、そのことを半年後に書き残している。自ら果たせそうにない恩返しを子どもに託すためだという。
 「できるだけ身近な人と助け合い、本当に必要なときに外側の支援を受け、後で恩返しをする。公的な支援に頼りがちな現代人と比べたら、自律した考え方だ」
 また、路頭に迷う膨大な数の被災者を救済できたのは、公的な支援に加え、渋沢栄一のような実業家から、ごく普通の人々までが、見ず知らずの人を家に泊めるなどして手を差し伸べたためだという。
 「彼らの真似はできなくても、こうした事実を知っておくことで、何か一つ助け合えるのではないか」
 地方でも、首都近郊の村々から遠隔地まで、震災後すぐに官民で被災者の受け入れに備えた。「名古屋駅では9月中に15万人の被災者が訪れた記録がある」。感謝の碑や供養の跡も各地に残っている。
 その後の復興を引っ張ったのは、「信じたことを貫き通す“明治の人間"たちのリーダーシップ」だ。後藤新平内務大臣は、遷都しない方針を貫き、東京の復興を推進。「佐野利器帝都復興院建築局長は、地震の物理的な解明を待たずに耐震基準づくりを断行した。地震学者の今村明恒は、自らの専門分野にとらわれず、防災のため地震知識や耐震技術の普及に尽力した」
 ただ、復興事業で東京の区画整理が進んだのは、「市民たちが、二度と同じような悲惨なことは
起こってほしくないと願ったためだろう」とも。なぜなら、明治時代には、住民の反対により市区改正が進まないことがあったからだ。実は、そこに関東大震災の被害を大きくした原因がある。

◇科学は安全を保障しない

 関東大震災では、震源が神奈川県であるにも関わらず、東京で全体の7割に当たる6万9000人の死者を出した。当時、東京の人口は220万人。よく似た地震の元禄地震では、人口70万人の江戸で340人の死亡者しか分かっていない。火災も起きなかったようだ。
 この違いは、隅田川東側の被害の差だ。元禄時代には、この辺りにほとんど人が住んでいなかったが、その後の科学技術の発達で治水が進み、人が住めるようになった。ただ、街路が未発達なまま人口が過密になり、関東大震災で多くの人が亡くなった。
 「科学技術は、必ずしも安全を保障せず、選択肢を増やしているにすぎない。隅田川の東側に住む選択肢を取るには、地震対策が必要だった」。現在、高強度コンクリートが超高層住宅という選択肢を生んだが、地震時にエレベーターが停まる可能性を踏まえて住む必要があるのと同様だ。
 隅田川東側の中でも、特に多くの死者を出したのは、避難所となった本所の被服廠跡。3万8000人もの人が亡くなっている。人々が、江戸時代の禁止令を忘れ、大八車で家財道具を持ち込んだ結果、火災が起こった。のちに物理学者の中村清二が調査し、「同じ失敗を何度となく経験しても吾々は一向に賢明にならなかったのである。大八車が自動車にかわることはあろうけれども」と記している。
 「この予言どおり、東日本大震災では、帰宅する車が道路を埋め尽くした。火災が発生して引火していれば、大惨事につながった」と武村教授。よく「天災は忘れたころにやってくる」と言われるが、これは「だから絶対に忘れてはいけない、そのための算段が必要だ」という意味であり、それがわれわれの身を守る唯一の方法だという。
 「天災は~」の格言は、寺田寅彦の言葉とされる。「寺田は物理学者でありながら、日本の自然は生やさしくないため、自然を征服する西洋の発想と異なり、科学の限界を知らなければならない、とも強調している」
 東日本大震災では、警報の予測や堤防を過信し、安心していた多くの人たちが、避難せずに津波の被害を受けた。「よく政治家が『安心』を強調するが、安全にとって安心は最も危険な状態だ。同様に、原発なども単に『心配だからなくす』のか、安全策の知恵を出し合うのか、よく考えるべきではないか」
 1923年に比べ、科学技術が進歩し、選択肢が増えたいま、「われわれはより自律していなければならない。それぞれの立場で、自分の頭で安全策を考え冷静に考えて行動することが求められる」